籐だけが持っている暖かな雰囲気、素材の持っているすばらしい魅力の数々、1000年以上前から現在に至るまで、世界中の人々の心を癒してくれています。
・・・籐は『自然からの贈り物』です。
文明の発祥地エジプトで、すでに籐のスツールが使われていました。籐の持つ柔軟性が体に触れたとき心地良いことをエジプト人も知っていたのです。
それからヨーロッパでは、ルネッサンス期にルイ13世式椅子に編んだ籐を背もたれ部分に使われ、その美しさが王侯貴族の人気をよびました。ルイ14世の頃に花開いた家具黄金時代には、皮や籐などを使った豪華な椅子が登場しています。
ドーバー海峡の向こうイギリスでも、チャールズ2世の頃にフランスや北ヨーロッパの影響で籐椅子が製造されるようになりました。
以後、ヨーロッパを中心に籐家具が発達したのは、ヨーロッパの各国が籐の原産地(東南アジア)を植民地にしていたからです。
日本でも籐の歴史は古く、1000年以上前から愛用されてきました。正倉院に保管されている篭、藤原時代の重藤の弓、なぎなたの柄巻、のかがりなど戦の武器に多く見られます。また、建築にも多く用いられました(棟の接合、タガ締など)。
籐が生活用具として発達したのは江戸時代で、たばこ差しなどが作られています。
室町時代の和歌の季語に「とうまくら」があります。
すでに籐の枕が日本にあったのでしょうか。
江戸時代(1603年)にはトウムシロTomuxiroという言葉が記された辞書が残されています。
籐が敷物として認識されていたのでしょう。
籐は日本にはありませんので貴重な輸入品です。
高価な敷物とてお金持ちの集まる料亭や祇園のお茶屋、呉服屋、酒屋の奥座敷な
どで使われていたようです。
夏の蒸し暑さを快適にする最高級の「おもてなし」です。
籐家具の製造技術が日本に伝わったのは明治初期です。神戸や横浜にいた中国の工人によって紹介され、その後欧米の文化が輸入されるにつれて椅子生活が普及し、籐椅子は「西京丸」とよばれてハイカラな生活スタイルとして定着しました。
そして現在、新しい感覚で籐家具が見直されています。
(一部大阪籐商工振興会創立25周年記念小誌より抜粋)
現在では籐細工は全国的に職人が少なくなっていますが、
その始まりは下級武士の手内職だったと言われます。
従いまして当時の籐職人の位は他の職人から比べ大変高い位とされておりました。
<これはびっくり!!日本の籐の始まりは廃棄物利用でした。>
日本での籐職人の始まりは、最初から籐細工・籐家具を作る目的ではなく、
挽籐屋(ひきとうや)・籐割り屋と言いまして、
籐材料から籐の表面を薄く挽て作る<籐皮(ピール)>の生産が最初でした。
その始まりは、秀吉の時代の南蛮貿易が盛んな頃、
砂糖の輸入された袋の荷造り用の縄代りに籐が使われており、
(砂糖以外の麻緒の輸入梱包などにも籐が縄代わりに使われていました。
<水籐(ルウ)という材料>
これを解いて、水に濡らして、
これを割り挽きにしたらたら非常に強度があり
これは使えるということで、弓に籐を巻いたり、刀に籐を巻いたのが始まりで、
武士の内職から始まりました。
なぜ武士の内職から始まったと言うのは
籐を割るのに武士の持っていた刀の折れたものを使用したからです。
籐工芸は大別し、<椅子、カーペット等の敷物と籠物>の3つに分類されますが
籠物を中心として、
正倉院に所蔵されている篭、なぎなたの柄巻、鎧のかがりなど
戦の武器に多く見られるように、「籐巻き」などの技法に代表される籐(ラタン)工芸の歴史は古く、
わが国では1000年以上前から作られていると言われます。
江戸時代に入ると、生活用具としても発達し、たばこ差しなどが作られました。
その後明治初期に神戸・横浜の中国工人によって籐家具の製造技術が日本に伝えられ、
文明開化によって欧米の椅子やテーブルの文化が流入た事もあり、
新たな生活スタイルとして籐椅子が定着してきました。
しかし残念なことに、日本の籐工芸業界は、高度成長期に意匠権の保護がなく、
台湾・インドネシアの安価な製品により壊滅的な打撃を受けて、
日本に残る腕のいい<籐職人>は数10人になってしましました。
(大阪籐商工振興会創立25周年記念小誌より抜粋)
大阪での籐製品業界が発達してきたのは
徳川時代も末期に近く明治に入って明治の中期から
末期には次第に盛んになって大正から昭和初期には
地域的にも生産する種類も増えてきました。
大阪に籐が入ってきたのはさだかではありませんが
日本の貿易から考えると、
大阪の薬問屋の場所の<道修町>周辺から
オランダから、入ってきたのが有力とされてます。
港としては横浜より早く神戸の居留地に住む華僑との
関係が深かったためです。
<当時は輸入は神戸が中心で輸出は横浜が中心でした>
大阪の屋号を調べた文献の中に
< ○○割籐屋><○○籐商><○○籐店>と言う屋号で
明治時代は大阪で20軒の籐屋がありました。
その後大正から 昭和の初めには大阪籐商工の
籐友会(挽籐屋<割籐屋とも言う>のグループだけで50軒)で
その職人は300人~400人いたそうです。
この挽籐屋<割籐屋とも言う>の職人が弊社の籐職人の 初代 市村亀太郎です。
籐挽き<割籐>材料は
茶瓶・湯沸しの手巻き用・傘の柄の籐巻き材料として
大変な人気を得て 最盛期には月間150万本くらい売れたそうです。
その後
昭和10年を過ぎての日本は非常時となり
これを境に業界も職人もちりじりになりました。
それから
戦後籐材料輸入再開とともに昭和28年に組織された
<大阪籐商工会>が<大阪籐商工振興会>として
新たにスタートしました。
1.籐むしろ <慶応・万延時代>
2、籐の炭取り(炭をいれる籠)
3、籐乳母車
4、籐椅子寝台 <三つ折れ椅子>
5、籠 (大正時代は生産量が一番多い)
★乳母車 2円50銭~3円
★籐筵も1円台~2円台
★椅子(台湾椅子と呼ばれてました)が1円台~80銭
現在とは、「モノのありがたみ」も変わってしまってますから
一概のは言えませんが、大体
当時の1円 = 現在の1万円 位です。